陸奥国遠田郡中津山村(現・宮城県登米市米山町中津山)出身。元文年間頃に初土俵を踏む。家老衆の家来になって江戸見物に出たのは良いが、体が重くて歩くのが下手だったため、二足用意した草鞋をすぐ踏み潰しては徹夜で編み直すこととなり、馬に乗せれば足が地に着いてしまうほどだった。やっとの思いで江戸に到着したが、これでは故郷に帰るのもおぼつかないために入門したと伝わる。 1737年(元文2年)4月大坂堀江で行われた興行に西大関として出場。その後しばらく出場した記録がないが、1744年(延享元年)8月に京二条河原で行われた興行に東大関として出場し、1749年(寛延2年)までに京や大坂で行われた数興行にいずれも大関として出場している。相撲は下手だったが突っ張るだけで相手は立っていられなかったとされる。
1749年の長崎巡業の際に現役のまま没した。死因は赤痢と言われている。37歳没。 |
初代横綱とされる明石志賀之助と第2代横綱とされる綾川五郎次の2人と共に丸山を含む3人は伝説上の横綱と言う位置付けがなされているが、明石と綾川が実在自体を疑問視されているのに対し、丸山は実在が確認されているという点で大きく異なるそうです。また実力自体は現在の基準に当てはめれば横綱でも文句無しだったと言われるそうです。
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